2013年7月4日木曜日

2013年度 日本宗教史懇話会サマーセミナーの概要紹介⑤
 :見学先のみどころ

今回は、26日・28日のオプション見学会、エクスカーションで訪ねる伊豆の史跡群について、簡単にみどころをご紹介いたします。

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1)伊豆山神社(伊豆山権現)
 走湯からの長い石段を登り切ると、伊豆山神社がその威容を現します。同社は、社号を「伊豆山権現」「伊豆権現」「走湯権現」ともいいます。祭神について、明治以前は、火牟須比命・伊邪那岐命・伊邪那美命三柱説、瓊瓊杵命説などがありましたが、昭和3年(1928)に現在の伊豆山神一座を奉祀する形へ改められました。創建の事情については明らかではありませんが、『延喜式』神名帳にみえる田方郡の小社「火牟須比命神社」が、同社に当たるともいわれています。中世成立の『走湯山縁起』には、応神天皇治世に相模国の海岸へ一つの円鏡が出現、やがて日金山頂に遷移したそれを松葉仙人が奉祀し、仁徳天皇治世には温泉(走湯)を出して衆生を救済したと伝えています。早くから神仏習合が進み、別当寺として東明寺が存在しましたが、鎌倉時代の終わりには醍醐寺三宝院末寺の密厳院がこれに替わり、現在はその一部であった般若院が残っています。源頼朝は早くから本社を崇敬し、治承4年(1180)の挙兵の際には妻政子に『般若心経』19巻を奉納させています(境内には、『源平盛衰記』にみえる頼朝・政子の密会の場という腰掛け石が残っています)。幕府の成立後には社領その他を寄進、より信仰を強くしましたが、これ以降も歴代の幕府や将軍たちから寄進が相次ぎ、その威勢を保護されてきました。社蔵の宝物も少なくなく、一部は境内の郷土資料館にてみることができます。『吾妻鏡』に記載のある、政子が頼朝の一周忌に際して自らの頭髪で刺繍し寄進したという、頭髪梵字曼荼羅も(複製ではありますが)展示されています。本サマーセミナーでは、26日の研究報告会開始前に、オプション見学会として参詣を予定しています。また同日の夕方には、駒沢大学禅文化歴史博物館学芸員の塚田博氏に、同社の簡単な解説をしていただく予定です。オプション見学会に参加しない方も、宿泊のホテルから至近の距離ですので、ぜひ開催期間中に見学してください。

2)北條寺
 北條寺は、鎌倉幕府第2代執権北条義時が創建した寺院です。北条氏邸跡や願成就院のある守山から、狩野川を挟んで西北方向に1㌔ほどの場所にあります。縁起によると、もともとの本尊の観音像は江間村観音院に安置されていた渡来仏で、源頼朝が源氏再興を祈願して巡礼した三十三観音のひとつでしたが、正治2年(1200)に義時の嫡男が大蛇に襲われ落命した際、墓所として寺号を万徳山北條寺と改め、運慶に阿弥陀如来を彫刻させ伽藍を整備したとされています。現在は建長寺の末寺で、境内の小四郎山には分骨された義時夫妻の墓があり、伝運慶作の阿弥陀如来坐像、政子寄進による平安初期中国製の牡丹鳥獣文繍帳のほか、北条氏・後北条氏に関連する多くの古文書が伝わっています。


3)北条氏邸跡・伝堀越御所跡・北条政子産湯の井戸
 鎌倉幕府の執権として繁栄した北条氏は、桓武平氏の分流で時政を始祖とし、伊豆国田方郡北条(静岡県田方郡韮山町)を本拠としました。諸系図などの所伝では、先祖は代々伊豆国の在庁官人で、時政の父時方の代に伊豆介となって北条に住み、北条氏を称したといわれています。狩野川に面する守山の西北側にある北条氏邸跡は、その北条氏の館が建てられていました。1992〜1993年の発掘調査では、平安時代末から鎌倉時代初頭にかけての大量の出土遺物とともに、建物跡の存在が確認されています。守山東側にある願成就院は北条氏の氏寺で、北条時政の墓も存在し、同地周辺が北条氏の本拠であったことは間違いありません。付近には、北条政子産湯の井戸と伝えられる古井戸も存在します。なおこの邸宅は、元弘2年(1333)年に鎌倉幕府が滅亡して後、生き残った一族によって、鎌倉北条氏を弔う円成寺に整備されました。同寺は尼寺として江戸時代まで続いたことが分かっており、発掘調査ではこの寺院跡も確認されています。
 この北条氏邸跡に隣接するようにして、関東公方足利政知の邸宅があったと伝えられる場所も存在します。政知は天竜寺香厳院主として出家の身でしたが、康正元年(1455)、鎌倉公方足利成氏が下総古河に走った後、兄の将軍義政の指示で還俗、長禄元年(1457)に鎌倉へ向けて進発しました。しかし、成氏の抵抗にあって鎌倉へ入ることができず、堀越の地に居館を築いたと考えられています。政知の死後間もない明応2年(1493)には、伊勢長氏(北条早雲)の急襲を受けて嫡子茶々丸が殺され、堀越公方は滅亡するに至りますが、発掘調査により池跡や遣水も確認されていて、公方の都風の生活文化を窺い知ることができます。

4)願成就院
 守山の東側に位置する真言宗の古刹で、もともとは行基の開基によるものと伝えていますが、その名が史料に現れるのは鎌倉幕府の成立、執権北条氏の発展を契機としています。文治2年(1186)、源頼朝は運慶を奈良から招いて不動明王像、毘沙門天像などを造らせ、同5年にはその竣工を待って北条時政に命じ、北条氏の繁栄と奥州の藤原氏征討の成就を祈願すべく同寺を整備させました。かつては、多くの堂塔と苑池からなる藤原様式の大伽藍でしたが、明応2年(1493)の北条早雲による堀越公方攻め、天正18年(1590)の豊臣秀吉による韮山城攻めの際に戦火を受けて荒廃し、現在は18世紀再興の茅葺本堂が残るのみとなっています。戦後に建立された大御堂には、国宝に指定されている運慶作の木造阿弥陀如来坐像、木造不動明王二童子像、毘沙門天立像を安置し、宝物館では、北条政子の七回忌に孫の泰時が奉納したという木造地蔵菩薩坐像(政子の顔を写したといわれる)を拝観することができます。また、境内には北条時政墓、足利茶々丸墓があります。

5)三嶋大社
 三嶋大社は、いわずと知れた、静岡県三島市大宮町に鎮座する旧官幣大社です。大正期以降は、大山祇神・事代主神の2神を祭神としていますが、以前は、『東関紀行』『源平盛衰記』『釈日本紀』『二十一社記』『日本書紀纂疏』などにみえる大山祇説、平田篤胤が『古史伝』で主張した事代主説が行われました。史料的には、天平宝字2年(758)頃よりその存在が認められ(『新抄格勅符抄』)、『延喜式』神名帳などにより、かつては海岸に近い賀茂郡に所在したことが分かっています。一宮・総社制の確立に伴って伊豆国の一宮となり、鎌倉幕府以降は広く武家・庶民の信仰を集めました。社宝も豊富で、国宝の伝北条政子奉納梅蒔絵手箱のほか、源頼家筆『般若心経』、三島本『日本書紀』があり、歴史上の「有名人」たちがその名を記した古記録、古文書なども多く所蔵しています。
 なお、28日のエクスカーションでは、正式参拝の後、学芸員奥村徹也氏の案内で宝物館を見学し、本サマーセミナーのためだけに貴重文書・重要史料を展示していただく特別閲覧会も実施します。

6)三嶋暦師の館
 三嶋大社の至近には、地元のボランティアによって運営される三嶋暦に関する資料館、三嶋暦師の館があります。三島暦は、足利学校遺蹟図書館蔵『周易注疏』表紙裏の永享9年(1437)仮名版暦を最古とし、鎌倉時代まで遡るともいわれる版暦の代名詞です。伊豆国を中心に東海・関東・甲信の各地に広く頒行されましたが、貞享元年(1684)の改暦以降は伊豆と江戸、後に相模国のみでの配布が許されています。同資料館は、三島暦を代々発行していた下社家河合家の家屋を改修・整備して造られており、館内では、日本における暦の歴史に関する説明のほか、三嶋暦の版木や数々の関連資料が展示されています。写真は、かけ方によって大の月・小の月両方を示すことのできる看板。本セミナーでは、三嶋大社参拝・見学後に、オプションとして訪問する予定です。

 以上、今年度サマーセミナーの見学先について、みどころを簡単に説明してきました。なお当日は、伊豆の北条氏関連史跡について、左の『鎌倉幕府草創の地—伊豆韮山の中世遺跡群—』といった著書のある池谷初恵氏(伊豆の国市教育委員会文化財調査員)が、同行して説明をしてくださいます。どうぞご期待ください。
(文責:世話人ブログ担当)

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