今回は、8月27日にご報告いただく近藤祐介氏(学習院大学)のご専門や、これまでの研究内容などについてご紹介させていただきます。
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近藤祐介氏は、中世後期における修験道の組織化を、本山派に焦点を当てて解明した業績を蓄積している、注目の研究者です。その成果は多岐にわたりますが、聖護院門跡の人事や世俗権力との関係、門下の院家や在地山伏との関係を解明した研究、関東地方の山伏を取りまとめた幸手不動院、瀬戸内海交通にも関わった児島山伏の実像を解明した研究などが特筆されます。例えば、第24代熊野三山検校の道増が、天文年間に足利将軍の使節として各地を巡り、年行事補任状を発給して在地山伏の直接的掌握をはかった点を明らかにしたことなどは、修験道教団本山派の成立を考えるうえで極めて重要でしょう。
今回の発表「中世後期の熊野参詣と地域社会」では、中世後期に「衰退」するとされる熊野参詣を取り上げ、なぜ中世後期という時期に「衰退」していくのか、という問題を考えます。この分野に関しては新城常三氏の先駆的業績『社寺参詣の社会経済史的研究』(塙書房、1964年)がありますが、今回の報告ではこの新城氏の研究を踏まえつつ、地域社会と熊野先達に焦点を当てて、熊野参詣の「衰退」から見えてくる中世後期の地域社会について報告が行われる予定です。
修験道に関する研究は、実態解明という基礎作業が、おもに中世・近世を対象に、徐々に進みつつある状態です。複数の研究者が解明した事実関係を、どのように位置づけるか、議論が期待される分野です。
【主な論著】
・「戦国期関東における幸手不動院の台頭と鎌倉月輪院―後北条氏と古河公方の関係から―」『地方史研究』315、2005年
・「中世後期の東国社会における山伏の位置」『民衆史研究』77、2009年
・「聖護院門跡と「門下」―一五世紀を中心に―」『学習院大学文学部研究年報』57、2010年
・「修験道本山派における戦国期的構造の出現」『史学雑誌』119-4、2010年
・「後北条領国における聖護院門跡と山伏」池享編『室町戦国期の社会構造』吉川弘文館、2010年
・「室町期における備前国児島山伏の活動と瀬戸内水運」鐘江宏之・鶴間和幸編著『東アジア海をめぐる交流の歴史的展開』東方書店、 2010年
(文責:世話人ブログ担当)
2013年7月7日日曜日
2013年7月4日木曜日
2013年度 日本宗教史懇話会サマーセミナーの概要紹介⑤
:見学先のみどころ
今回は、26日・28日のオプション見学会、エクスカーションで訪ねる伊豆の史跡群について、簡単にみどころをご紹介いたします。
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1)伊豆山神社(伊豆山権現)
走湯からの長い石段を登り切ると、伊豆山神社がその威容を現します。同社は、社号を「伊豆山権現」「伊豆権現」「走湯権現」ともいいます。祭神について、明治以前は、火牟須比命・伊邪那岐命・伊邪那美命三柱説、瓊瓊杵命説などがありましたが、昭和3年(1928)に現在の伊豆山神一座を奉祀する形へ改められました。創建の事情については明らかではありませんが、『延喜式』神名帳にみえる田方郡の小社「火牟須比命神社」が、同社に当たるともいわれています。中世成立の『走湯山縁起』には、応神天皇治世に相模国の海岸へ一つの円鏡が出現、やがて日金山頂に遷移したそれを松葉仙人が奉祀し、仁徳天皇治世には温泉(走湯)を出して衆生を救済したと伝えています。早くから神仏習合が進み、別当寺として東明寺が存在しましたが、鎌倉時代の終わりには醍醐寺三宝院末寺の密厳院がこれに替わり、現在はその一部であった般若院が残っています。源頼朝は早くから本社を崇敬し、治承4年(1180)の挙兵の際には妻政子に『般若心経』19巻を奉納させています(境内には、『源平盛衰記』にみえる頼朝・政子の密会の場という腰掛け石が残っています)。幕府の成立後には社領その他を寄進、より信仰を強くしましたが、これ以降も歴代の幕府や将軍たちから寄進が相次ぎ、その威勢を保護されてきました。社蔵の宝物も少なくなく、一部は境内の郷土資料館にてみることができます。『吾妻鏡』に記載のある、政子が頼朝の一周忌に際して自らの頭髪で刺繍し寄進したという、頭髪梵字曼荼羅も(複製ではありますが)展示されています。本サマーセミナーでは、26日の研究報告会開始前に、オプション見学会として参詣を予定しています。また同日の夕方には、駒沢大学禅文化歴史博物館学芸員の塚田博氏に、同社の簡単な解説をしていただく予定です。オプション見学会に参加しない方も、宿泊のホテルから至近の距離ですので、ぜひ開催期間中に見学してください。
2)北條寺
北條寺は、鎌倉幕府第2代執権北条義時が創建した寺院です。北条氏邸跡や願成就院のある守山から、狩野川を挟んで西北方向に1㌔ほどの場所にあります。縁起によると、もともとの本尊の観音像は江間村観音院に安置されていた渡来仏で、源頼朝が源氏再興を祈願して巡礼した三十三観音のひとつでしたが、正治2年(1200)に義時の嫡男が大蛇に襲われ落命した際、墓所として寺号を万徳山北條寺と改め、運慶に阿弥陀如来を彫刻させ伽藍を整備したとされています。現在は建長寺の末寺で、境内の小四郎山には分骨された義時夫妻の墓があり、伝運慶作の阿弥陀如来坐像、政子寄進による平安初期中国製の牡丹鳥獣文繍帳のほか、北条氏・後北条氏に関連する多くの古文書が伝わっています。
3)北条氏邸跡・伝堀越御所跡・北条政子産湯の井戸
鎌倉幕府の執権として繁栄した北条氏は、桓武平氏の分流で時政を始祖とし、伊豆国田方郡北条(静岡県田方郡韮山町)を本拠としました。諸系図などの所伝では、先祖は代々伊豆国の在庁官人で、時政の父時方の代に伊豆介となって北条に住み、北条氏を称したといわれています。狩野川に面する守山の西北側にある北条氏邸跡は、その北条氏の館が建てられていました。1992〜1993年の発掘調査では、平安時代末から鎌倉時代初頭にかけての大量の出土遺物とともに、建物跡の存在が確認されています。守山東側にある願成就院は北条氏の氏寺で、北条時政の墓も存在し、同地周辺が北条氏の本拠であったことは間違いありません。付近には、北条政子産湯の井戸と伝えられる古井戸も存在します。なおこの邸宅は、元弘2年(1333)年に鎌倉幕府が滅亡して後、生き残った一族によって、鎌倉北条氏を弔う円成寺に整備されました。同寺は尼寺として江戸時代まで続いたことが分かっており、発掘調査ではこの寺院跡も確認されています。
この北条氏邸跡に隣接するようにして、関東公方足利政知の邸宅があったと伝えられる場所も存在します。政知は天竜寺香厳院主として出家の身でしたが、康正元年(1455)、鎌倉公方足利成氏が下総古河に走った後、兄の将軍義政の指示で還俗、長禄元年(1457)に鎌倉へ向けて進発しました。しかし、成氏の抵抗にあって鎌倉へ入ることができず、堀越の地に居館を築いたと考えられています。政知の死後間もない明応2年(1493)には、伊勢長氏(北条早雲)の急襲を受けて嫡子茶々丸が殺され、堀越公方は滅亡するに至りますが、発掘調査により池跡や遣水も確認されていて、公方の都風の生活文化を窺い知ることができます。
4)願成就院
守山の東側に位置する真言宗の古刹で、もともとは行基の開基によるものと伝えていますが、その名が史料に現れるのは鎌倉幕府の成立、執権北条氏の発展を契機としています。文治2年(1186)、源頼朝は運慶を奈良から招いて不動明王像、毘沙門天像などを造らせ、同5年にはその竣工を待って北条時政に命じ、北条氏の繁栄と奥州の藤原氏征討の成就を祈願すべく同寺を整備させました。かつては、多くの堂塔と苑池からなる藤原様式の大伽藍でしたが、明応2年(1493)の北条早雲による堀越公方攻め、天正18年(1590)の豊臣秀吉による韮山城攻めの際に戦火を受けて荒廃し、現在は18世紀再興の茅葺本堂が残るのみとなっています。戦後に建立された大御堂には、国宝に指定されている運慶作の木造阿弥陀如来坐像、木造不動明王二童子像、毘沙門天立像を安置し、宝物館では、北条政子の七回忌に孫の泰時が奉納したという木造地蔵菩薩坐像(政子の顔を写したといわれる)を拝観することができます。また、境内には北条時政墓、足利茶々丸墓があります。
5)三嶋大社
三嶋大社は、いわずと知れた、静岡県三島市大宮町に鎮座する旧官幣大社です。大正期以降は、大山祇神・事代主神の2神を祭神としていますが、以前は、『東関紀行』『源平盛衰記』『釈日本紀』『二十一社記』『日本書紀纂疏』などにみえる大山祇説、平田篤胤が『古史伝』で主張した事代主説が行われました。史料的には、天平宝字2年(758)頃よりその存在が認められ(『新抄格勅符抄』)、『延喜式』神名帳などにより、かつては海岸に近い賀茂郡に所在したことが分かっています。一宮・総社制の確立に伴って伊豆国の一宮となり、鎌倉幕府以降は広く武家・庶民の信仰を集めました。社宝も豊富で、国宝の伝北条政子奉納梅蒔絵手箱のほか、源頼家筆『般若心経』、三島本『日本書紀』があり、歴史上の「有名人」たちがその名を記した古記録、古文書なども多く所蔵しています。
なお、28日のエクスカーションでは、正式参拝の後、学芸員奥村徹也氏の案内で宝物館を見学し、本サマーセミナーのためだけに貴重文書・重要史料を展示していただく特別閲覧会も実施します。
6)三嶋暦師の館
三嶋大社の至近には、地元のボランティアによって運営される三嶋暦に関する資料館、三嶋暦師の館があります。三島暦は、足利学校遺蹟図書館蔵『周易注疏』表紙裏の永享9年(1437)仮名版暦を最古とし、鎌倉時代まで遡るともいわれる版暦の代名詞です。伊豆国を中心に東海・関東・甲信の各地に広く頒行されましたが、貞享元年(1684)の改暦以降は伊豆と江戸、後に相模国のみでの配布が許されています。同資料館は、三島暦を代々発行していた下社家河合家の家屋を改修・整備して造られており、館内では、日本における暦の歴史に関する説明のほか、三嶋暦の版木や数々の関連資料が展示されています。写真は、かけ方によって大の月・小の月両方を示すことのできる看板。本セミナーでは、三嶋大社参拝・見学後に、オプションとして訪問する予定です。
以上、今年度サマーセミナーの見学先について、みどころを簡単に説明してきました。なお当日は、伊豆の北条氏関連史跡について、左の『鎌倉幕府草創の地—伊豆韮山の中世遺跡群—』といった著書のある池谷初恵氏(伊豆の国市教育委員会文化財調査員)が、同行して説明をしてくださいます。どうぞご期待ください。
(文責:世話人ブログ担当)
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1)伊豆山神社(伊豆山権現)
走湯からの長い石段を登り切ると、伊豆山神社がその威容を現します。同社は、社号を「伊豆山権現」「伊豆権現」「走湯権現」ともいいます。祭神について、明治以前は、火牟須比命・伊邪那岐命・伊邪那美命三柱説、瓊瓊杵命説などがありましたが、昭和3年(1928)に現在の伊豆山神一座を奉祀する形へ改められました。創建の事情については明らかではありませんが、『延喜式』神名帳にみえる田方郡の小社「火牟須比命神社」が、同社に当たるともいわれています。中世成立の『走湯山縁起』には、応神天皇治世に相模国の海岸へ一つの円鏡が出現、やがて日金山頂に遷移したそれを松葉仙人が奉祀し、仁徳天皇治世には温泉(走湯)を出して衆生を救済したと伝えています。早くから神仏習合が進み、別当寺として東明寺が存在しましたが、鎌倉時代の終わりには醍醐寺三宝院末寺の密厳院がこれに替わり、現在はその一部であった般若院が残っています。源頼朝は早くから本社を崇敬し、治承4年(1180)の挙兵の際には妻政子に『般若心経』19巻を奉納させています(境内には、『源平盛衰記』にみえる頼朝・政子の密会の場という腰掛け石が残っています)。幕府の成立後には社領その他を寄進、より信仰を強くしましたが、これ以降も歴代の幕府や将軍たちから寄進が相次ぎ、その威勢を保護されてきました。社蔵の宝物も少なくなく、一部は境内の郷土資料館にてみることができます。『吾妻鏡』に記載のある、政子が頼朝の一周忌に際して自らの頭髪で刺繍し寄進したという、頭髪梵字曼荼羅も(複製ではありますが)展示されています。本サマーセミナーでは、26日の研究報告会開始前に、オプション見学会として参詣を予定しています。また同日の夕方には、駒沢大学禅文化歴史博物館学芸員の塚田博氏に、同社の簡単な解説をしていただく予定です。オプション見学会に参加しない方も、宿泊のホテルから至近の距離ですので、ぜひ開催期間中に見学してください。
2)北條寺
北條寺は、鎌倉幕府第2代執権北条義時が創建した寺院です。北条氏邸跡や願成就院のある守山から、狩野川を挟んで西北方向に1㌔ほどの場所にあります。縁起によると、もともとの本尊の観音像は江間村観音院に安置されていた渡来仏で、源頼朝が源氏再興を祈願して巡礼した三十三観音のひとつでしたが、正治2年(1200)に義時の嫡男が大蛇に襲われ落命した際、墓所として寺号を万徳山北條寺と改め、運慶に阿弥陀如来を彫刻させ伽藍を整備したとされています。現在は建長寺の末寺で、境内の小四郎山には分骨された義時夫妻の墓があり、伝運慶作の阿弥陀如来坐像、政子寄進による平安初期中国製の牡丹鳥獣文繍帳のほか、北条氏・後北条氏に関連する多くの古文書が伝わっています。
3)北条氏邸跡・伝堀越御所跡・北条政子産湯の井戸
鎌倉幕府の執権として繁栄した北条氏は、桓武平氏の分流で時政を始祖とし、伊豆国田方郡北条(静岡県田方郡韮山町)を本拠としました。諸系図などの所伝では、先祖は代々伊豆国の在庁官人で、時政の父時方の代に伊豆介となって北条に住み、北条氏を称したといわれています。狩野川に面する守山の西北側にある北条氏邸跡は、その北条氏の館が建てられていました。1992〜1993年の発掘調査では、平安時代末から鎌倉時代初頭にかけての大量の出土遺物とともに、建物跡の存在が確認されています。守山東側にある願成就院は北条氏の氏寺で、北条時政の墓も存在し、同地周辺が北条氏の本拠であったことは間違いありません。付近には、北条政子産湯の井戸と伝えられる古井戸も存在します。なおこの邸宅は、元弘2年(1333)年に鎌倉幕府が滅亡して後、生き残った一族によって、鎌倉北条氏を弔う円成寺に整備されました。同寺は尼寺として江戸時代まで続いたことが分かっており、発掘調査ではこの寺院跡も確認されています。
この北条氏邸跡に隣接するようにして、関東公方足利政知の邸宅があったと伝えられる場所も存在します。政知は天竜寺香厳院主として出家の身でしたが、康正元年(1455)、鎌倉公方足利成氏が下総古河に走った後、兄の将軍義政の指示で還俗、長禄元年(1457)に鎌倉へ向けて進発しました。しかし、成氏の抵抗にあって鎌倉へ入ることができず、堀越の地に居館を築いたと考えられています。政知の死後間もない明応2年(1493)には、伊勢長氏(北条早雲)の急襲を受けて嫡子茶々丸が殺され、堀越公方は滅亡するに至りますが、発掘調査により池跡や遣水も確認されていて、公方の都風の生活文化を窺い知ることができます。
4)願成就院
守山の東側に位置する真言宗の古刹で、もともとは行基の開基によるものと伝えていますが、その名が史料に現れるのは鎌倉幕府の成立、執権北条氏の発展を契機としています。文治2年(1186)、源頼朝は運慶を奈良から招いて不動明王像、毘沙門天像などを造らせ、同5年にはその竣工を待って北条時政に命じ、北条氏の繁栄と奥州の藤原氏征討の成就を祈願すべく同寺を整備させました。かつては、多くの堂塔と苑池からなる藤原様式の大伽藍でしたが、明応2年(1493)の北条早雲による堀越公方攻め、天正18年(1590)の豊臣秀吉による韮山城攻めの際に戦火を受けて荒廃し、現在は18世紀再興の茅葺本堂が残るのみとなっています。戦後に建立された大御堂には、国宝に指定されている運慶作の木造阿弥陀如来坐像、木造不動明王二童子像、毘沙門天立像を安置し、宝物館では、北条政子の七回忌に孫の泰時が奉納したという木造地蔵菩薩坐像(政子の顔を写したといわれる)を拝観することができます。また、境内には北条時政墓、足利茶々丸墓があります。
5)三嶋大社
三嶋大社は、いわずと知れた、静岡県三島市大宮町に鎮座する旧官幣大社です。大正期以降は、大山祇神・事代主神の2神を祭神としていますが、以前は、『東関紀行』『源平盛衰記』『釈日本紀』『二十一社記』『日本書紀纂疏』などにみえる大山祇説、平田篤胤が『古史伝』で主張した事代主説が行われました。史料的には、天平宝字2年(758)頃よりその存在が認められ(『新抄格勅符抄』)、『延喜式』神名帳などにより、かつては海岸に近い賀茂郡に所在したことが分かっています。一宮・総社制の確立に伴って伊豆国の一宮となり、鎌倉幕府以降は広く武家・庶民の信仰を集めました。社宝も豊富で、国宝の伝北条政子奉納梅蒔絵手箱のほか、源頼家筆『般若心経』、三島本『日本書紀』があり、歴史上の「有名人」たちがその名を記した古記録、古文書なども多く所蔵しています。
なお、28日のエクスカーションでは、正式参拝の後、学芸員奥村徹也氏の案内で宝物館を見学し、本サマーセミナーのためだけに貴重文書・重要史料を展示していただく特別閲覧会も実施します。
6)三嶋暦師の館
三嶋大社の至近には、地元のボランティアによって運営される三嶋暦に関する資料館、三嶋暦師の館があります。三島暦は、足利学校遺蹟図書館蔵『周易注疏』表紙裏の永享9年(1437)仮名版暦を最古とし、鎌倉時代まで遡るともいわれる版暦の代名詞です。伊豆国を中心に東海・関東・甲信の各地に広く頒行されましたが、貞享元年(1684)の改暦以降は伊豆と江戸、後に相模国のみでの配布が許されています。同資料館は、三島暦を代々発行していた下社家河合家の家屋を改修・整備して造られており、館内では、日本における暦の歴史に関する説明のほか、三嶋暦の版木や数々の関連資料が展示されています。写真は、かけ方によって大の月・小の月両方を示すことのできる看板。本セミナーでは、三嶋大社参拝・見学後に、オプションとして訪問する予定です。
以上、今年度サマーセミナーの見学先について、みどころを簡単に説明してきました。なお当日は、伊豆の北条氏関連史跡について、左の『鎌倉幕府草創の地—伊豆韮山の中世遺跡群—』といった著書のある池谷初恵氏(伊豆の国市教育委員会文化財調査員)が、同行して説明をしてくださいます。どうぞご期待ください。
(文責:世話人ブログ担当)
2013年度 日本宗教史懇話会サマーセミナーの概要紹介④
:報告者 三橋正氏について
今回は、8月27日にご報告いただく三橋正氏(明星大学)のご専門や、これまでの研究内容などについてご紹介させていただきます。
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三橋正氏は、これまで『平安時代の信仰と宗教儀礼』において、古記録を主要な史料として平安貴族社会における神祇・仏教・陰陽道など複数の宗教と関わる様々な信仰形態や宗教儀礼について分析し、平安時代とりわけ摂関期において、神と仏や日常的禁忌を必要に応じて使い分ける「日本的」宗教構造が形成されたことを解明されています。近年では、『日本古代神祇制度の形成と展開』を出版され、古代から中世にかけての神祇儀礼や穢規定・神職制度の歴史的変遷を検討し、個別の制度面の形成と展開という視点から、「神道」の四段階成立説を提示されています。「神祇」とタイトルにはありますが、著者は前著に引き続き神祇制度や「神道」を固定的なものとして捉えるのではなく、仏教など諸宗教の影響を受けつつ、古代から中世へと歴史的に形成されていったものとして捉える点が重要であると思われます。その他にも精力的に史料註釈を行っており、『麗気記』の註釈により、中世神道についての見解を示されている他、『小右記』の註釈も出されています。これらを総合して、古代から中世へと「神祇世界」がどう変遷したのか、氏の最新の研究の展望が示されることが期待されます。
【主要著書・論文】
・『平安時代の信仰と宗教儀礼』続群書類従完成会、2000年
・『日本古代神祇制度の形成と展開』法蔵館、 2010年
・「『麗気記』の構成と言説」『日本学研究』4、2001年
・「中世前期における神道論の形成―神道文献の構成と言説―」大隅和雄編『文化史の諸相』吉川弘文館、2003年
・「密教儀礼から神道論へ」『東洋の思想と宗教』22、2005年
・「『麗気記』の構想と「神体図」―密教による神の理論化と図像化―」速水侑編『日本社会における仏と神』吉川弘文館、2006年
・「蔵王権現と黄不動―日本の山岳宗教における神の出現―」明星大学日本文化学部共同研究論集第10輯『言語と芸術』明星大学日本文化学部、2007年
・「日本的信仰構造の成立と陰陽道」鈴木靖民編『古代日本の異文化交流』勉誠出版、2008年
・「九条家における基層的神祇信仰」小原仁編『「玉葉」を読む―九条兼実とその時代―』勉誠出版、2013年
(文責:世話人ブログ担当)
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三橋正氏は、これまで『平安時代の信仰と宗教儀礼』において、古記録を主要な史料として平安貴族社会における神祇・仏教・陰陽道など複数の宗教と関わる様々な信仰形態や宗教儀礼について分析し、平安時代とりわけ摂関期において、神と仏や日常的禁忌を必要に応じて使い分ける「日本的」宗教構造が形成されたことを解明されています。近年では、『日本古代神祇制度の形成と展開』を出版され、古代から中世にかけての神祇儀礼や穢規定・神職制度の歴史的変遷を検討し、個別の制度面の形成と展開という視点から、「神道」の四段階成立説を提示されています。「神祇」とタイトルにはありますが、著者は前著に引き続き神祇制度や「神道」を固定的なものとして捉えるのではなく、仏教など諸宗教の影響を受けつつ、古代から中世へと歴史的に形成されていったものとして捉える点が重要であると思われます。その他にも精力的に史料註釈を行っており、『麗気記』の註釈により、中世神道についての見解を示されている他、『小右記』の註釈も出されています。これらを総合して、古代から中世へと「神祇世界」がどう変遷したのか、氏の最新の研究の展望が示されることが期待されます。
【主要著書・論文】
・『平安時代の信仰と宗教儀礼』続群書類従完成会、2000年
・『日本古代神祇制度の形成と展開』法蔵館、 2010年
・「『麗気記』の構成と言説」『日本学研究』4、2001年
・「中世前期における神道論の形成―神道文献の構成と言説―」大隅和雄編『文化史の諸相』吉川弘文館、2003年
・「密教儀礼から神道論へ」『東洋の思想と宗教』22、2005年
・「『麗気記』の構想と「神体図」―密教による神の理論化と図像化―」速水侑編『日本社会における仏と神』吉川弘文館、2006年
・「蔵王権現と黄不動―日本の山岳宗教における神の出現―」明星大学日本文化学部共同研究論集第10輯『言語と芸術』明星大学日本文化学部、2007年
・「日本的信仰構造の成立と陰陽道」鈴木靖民編『古代日本の異文化交流』勉誠出版、2008年
・「九条家における基層的神祇信仰」小原仁編『「玉葉」を読む―九条兼実とその時代―』勉誠出版、2013年
(文責:世話人ブログ担当)
2013年度 日本宗教史懇話会サマーセミナーの概要紹介③
:報告者 桃崎祐輔氏について
今回は、8月26日にご報告いただく桃崎祐輔氏(福岡大学)のご専門や、これまでの研究内容などについてご紹介させていただきます。
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桃崎祐輔氏は、ユーラシアの騎馬文化、4~18世紀の考古学を専門としています。氏の研究の特徴は、「中世」という時代を、「重装騎馬戦術にもとづく武人政権の成立と、その暴力の制御装置としての宗教権門の巨大化による相互補完的メカニズムの成立」と捉えていること。この観点から、古墳時代社会も初期中世と理解しています。
今回の報告は、ミワ部を主体とする滑石製模造品を用いた祭儀がテーマ。古墳時代の祭祀信仰で重要な役割を果たしたミワ部は、須恵器生産や子持勾玉を含む滑石製模造品の生産に関与していました。古墳時代中期以降、朝鮮半島からの渡来技術を基盤とする須恵器甕を用いた醸造技術により、荒ぶる神霊を酩酊・鎮静させる神酒という新しい呪術メカニズムが確立していきますが、これに滑石製模造品の祭祀儀礼が結びついたと主張するものです。
【主な論著】
・「東アジア的視点から見た、三燕・朝鮮・三国の馬具」『馬 アジアを駆けた二千年』九州国立博物館開館5周年記念特別展図録、2010年
・「牧の考古学-古墳時代牧と牛馬飼育集団の集落・墓-」『日韓集落研究会 第5回合同研究会「日韓集落研究の新たな視角を求めて」』江陵大学校博物館、2011年
・「牧の考古学-古墳時代牧と牛馬飼育集団の集落・墓」『日韓集落の研究-弥生・古墳時代および無文土器~三国時代-』(最終報告書)日韓集落研究会、2012年
・「3 交通と伝達 乗馬」福永伸哉・一瀬和夫・北條芳隆編『古墳時代の考古学 第5巻 時代を支えた生産と技術』同成社、2012年
(文責:世話人ブログ担当)
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桃崎祐輔氏は、ユーラシアの騎馬文化、4~18世紀の考古学を専門としています。氏の研究の特徴は、「中世」という時代を、「重装騎馬戦術にもとづく武人政権の成立と、その暴力の制御装置としての宗教権門の巨大化による相互補完的メカニズムの成立」と捉えていること。この観点から、古墳時代社会も初期中世と理解しています。
今回の報告は、ミワ部を主体とする滑石製模造品を用いた祭儀がテーマ。古墳時代の祭祀信仰で重要な役割を果たしたミワ部は、須恵器生産や子持勾玉を含む滑石製模造品の生産に関与していました。古墳時代中期以降、朝鮮半島からの渡来技術を基盤とする須恵器甕を用いた醸造技術により、荒ぶる神霊を酩酊・鎮静させる神酒という新しい呪術メカニズムが確立していきますが、これに滑石製模造品の祭祀儀礼が結びついたと主張するものです。
【主な論著】
・「東アジア的視点から見た、三燕・朝鮮・三国の馬具」『馬 アジアを駆けた二千年』九州国立博物館開館5周年記念特別展図録、2010年
・「牧の考古学-古墳時代牧と牛馬飼育集団の集落・墓-」『日韓集落研究会 第5回合同研究会「日韓集落研究の新たな視角を求めて」』江陵大学校博物館、2011年
・「牧の考古学-古墳時代牧と牛馬飼育集団の集落・墓」『日韓集落の研究-弥生・古墳時代および無文土器~三国時代-』(最終報告書)日韓集落研究会、2012年
・「3 交通と伝達 乗馬」福永伸哉・一瀬和夫・北條芳隆編『古墳時代の考古学 第5巻 時代を支えた生産と技術』同成社、2012年
(文責:世話人ブログ担当)
2013年7月2日火曜日
2013年度 日本宗教史懇話会サマーセミナーの概要紹介②
:報告者 駒井匠氏について
今回は、8月26日にご報告いただく駒井匠氏(立命館大学大学院)のご専門や、これまでの研究内容などについてご紹介させていただきます。
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駒井匠氏は、これまでの古代の得度受戒についての制度的考察を足がかりに、奈良・平安時代の政治権力と仏教の動静を継続的視野をもって考究しており、とくに、政治権力の変質過程の具体相の解明をめざしています。
氏の研究は、奈良・平安時代を政治史・仏教史の両側面から考察し、その変容過程を動的にとらえようとすることに特徴があります。今回の発表は、これまで研究が薄かった平安時代前期に注目し、政治権力(宇多太上法皇とその周辺)と仏教との関係を考究していくものでしょう。この実直な作業は、じつは、従来の制度の説明とその崩壊過程の説明とでつくられた古代史の枠組みそのものを、変えていく可能性を含んでいます。
今回の報告の核となる問題は、なぜ9世紀半ば以降には、天皇の生前譲位・仏式の隠居が通例化し、さらには摂政・関白という装置を備えた政権構造が確立していくのかということです。この問題をあきらかにしようとする作業にとりくむことは、8世紀を頂点に仏教史が古代国家論に組み込まれて説明されるいわゆる国家仏教論の見直しはいうまでもなく、〈古代は崩壊する〉・〈中世は成立する〉という国史学の伝統的命題そのものを見直す作業へと連動することになると考えられます。
【主な論著】
・「奈良時代得度制度の再検討-天平六年十一月太政官奏を中心に-」『続日本紀研究』378、2009年
・「平安前期における南都授戒制度の変質とその背景」『立命館文学』624、2012年
・「宇多上皇の出家に関する政治史的考察」『仏教史学研究』55-1、2012年
(文責:世話人ブログ担当)
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駒井匠氏は、これまでの古代の得度受戒についての制度的考察を足がかりに、奈良・平安時代の政治権力と仏教の動静を継続的視野をもって考究しており、とくに、政治権力の変質過程の具体相の解明をめざしています。
氏の研究は、奈良・平安時代を政治史・仏教史の両側面から考察し、その変容過程を動的にとらえようとすることに特徴があります。今回の発表は、これまで研究が薄かった平安時代前期に注目し、政治権力(宇多太上法皇とその周辺)と仏教との関係を考究していくものでしょう。この実直な作業は、じつは、従来の制度の説明とその崩壊過程の説明とでつくられた古代史の枠組みそのものを、変えていく可能性を含んでいます。
今回の報告の核となる問題は、なぜ9世紀半ば以降には、天皇の生前譲位・仏式の隠居が通例化し、さらには摂政・関白という装置を備えた政権構造が確立していくのかということです。この問題をあきらかにしようとする作業にとりくむことは、8世紀を頂点に仏教史が古代国家論に組み込まれて説明されるいわゆる国家仏教論の見直しはいうまでもなく、〈古代は崩壊する〉・〈中世は成立する〉という国史学の伝統的命題そのものを見直す作業へと連動することになると考えられます。
【主な論著】
・「奈良時代得度制度の再検討-天平六年十一月太政官奏を中心に-」『続日本紀研究』378、2009年
・「平安前期における南都授戒制度の変質とその背景」『立命館文学』624、2012年
・「宇多上皇の出家に関する政治史的考察」『仏教史学研究』55-1、2012年
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